学校卒業後、小さな商社に就職した私は妻と三人の子供を残して1983年の4月にアメリカ、ニューヨークに単身赴任となりました。
私の担当は水産部門です。当時のアメリカは日本食レストランはまだまだ珍しい存在でした。有名なのはロッキー青木が全米に展開する日本風ステーキレストランでした。魚を生で食べるという習慣など想像すらできない時代です。それが今日のように天ぷらは勿論、寿司がポピュラーになったということは驚き以外ありません。 当時、いわれていたことはアメリカでは年間30万人の人が心臓病で亡くなっているという話題でした。
その解決策を求めて政府からマクガバンレポートが提出されました。それによると食生活改善の決め手は日本食にあるとありました。そんな社会的ニーズと要請に後押しされて、日本食レストランが全米にまで広がり、そこに配送する魚と日本食の卸をする私の会社が急成長していきました。私はたまたまその波に乗っていただけですが、時代のニーズに乗ったビジネスがこんなに勢いがあるのかという貴重な体験することができました。 1990年に私は会社の転勤で家族と共に娘だけをアメリカに残して帰国をしました。ここで我が家にカルチャーによる問題が起こりました。帰国子女として学校に行きだした長男がどうしても日本に馴染めなくなったのです。 学校の先生も生徒も良い人ばかりでしたが、息子は学校に行かなくなり、自分の心の葛藤を弟にあたってみたり、壁を叩いたり、唾を吐いたりして心を閉ざしてしまったのです。私は毎晩会社から帰ると彼とできる限りの会話を心がけました。 どうしてあげたらいいものか、手探りしているうちに彼がポロっと ”アメリカに帰りたい!” と言いました。それから3日後には私と息子は成田からニューヨーク行きの飛行機に飛び乗りました。
現地には日本に帰国せずアメリカに滞在して高校に通っていた娘のところに転がり込み、あくる日には二人で近くの高校に入学の手続きを済ませました。その後は妻とバトンをタッチして、妻はアメリカで二人の子供を、私は日本にいる次男をみるという二重生活を余儀なくされました。しかし、その後の長男の成長や変化を見てみると見事に立ち直っていきました。三人とも外国の大学を卒業し、それぞれ就職し家族を持てるようになりました。今振り返ってみると親としての不足な分を長男が一時期、背負って苦しませてしまいましたが、あの時の夫婦の決断と実行は正しかったと今の息子や娘を見てつくづく胸をなでおろしています。 家族の問題と同時に次に起こったのが私自身の問題です。 会社内での権力闘争に私自身が巻き込まれ、心身ともに疲労困憊しとうとう腎臓結石を発病して七転八倒の苦しみに襲われてしまいました。病院に通いながら、もう私自身の心も体も会社に対する拒否反応でとうとう辞表を提出しました。まだ定年まで間がある51歳です。これからの生活、子供達の大学進学などが待った無しです。今後どうしたらいいのかわからないまま辞めてしまったのですが”まあなんとかなるから大丈夫よ!”と妻にいわれたことだけは今も覚えています。
そんな時にある知人からこんな治療器があるから使ってみないと勧められました。痛みでワラにも縋りたい状況だったので、すぐに使ってみました。なんとそれ以来、あれほど苦しかった痛みが嘘のように消え去り、病院にも通わなくても良くなってしまったのです。
私にとっては奇跡のような出来事に遭遇し、それが切っ掛けでこの治療器の販売会社を起業することになりました。妻は勿論、私の身体と私の仕事のことを心配して母を始め私の兄姉達がこの創業の一歩に大きく貢献、応援してくれたことを忘れることはできません。同時に友人、知人らが私に協力してくれました。アメリカから帰国以来、密かに願っていたことがこういう形で実現し、起業に漕ぎついたこと 今考えても不思議なことでした。