1990年夏、私の家族5人でメキシコのティファナに車で旅行に行きました。長男、長女の二人はすでにアメリカの大学で勉強中でしたから家族の絆を深めるために隣のメキシコに行くことにしました。
車でアメリカのサンディエゴからメキシコの国境を越えた時、空はまったく変わらないのに何か変化を肌で感じたのが印象的でした。
そしてランチに入ったレストランでは食後に割増の請求書がだされ、それに息子がクレームしたことも思い出の一つです。彼らは日本人はクレームをしない人達だと思い込んで好き勝手に不正請求するのです。
私は街の繁華街を歩いている時に気になったことがありました。”なぜメキシコの野菜は痩せ細り、みずみずしさが無いのだろう”でした。その理由をメキシコの現地で20年もウニの加工業をしている友人が話してくれました。メキシコでは大統領になると、自分を応援してくれた人や親族に土地の権利書を配るそうです。
大統領が変わるたびにそれを繰り返すので一つの土地を巡って法廷闘争が頻発する。農民は死活問題なので作物づくりどころではなくなってしまうというのです。
また歴代の大統領は獲得した権力を利用し、辞めるまでに財産を溜め込みそれを海外に移して自己保身することが当たり前になっている,と友人が言いました。為政者がドロボーだと国民までドロボーになってしまう標本のようなできごとを聞き、店頭に並ぶしなびた野菜の原因に納得することができたと同時に、私はまったく驚きました。
しかし、この話は1990年代の話ですから今はもっと進歩発展しているだろうと考えていましたら、去年トランプ大統領がメキシコの国境に壁を作ることを実行したのです。メキシコでの生活が苦しく生きていくすべを求めて難民が後をたたない、それに混じって凶悪犯罪者までアメリカに入り込んでくる流民を防ぐための壁です。やむを得ないとはいえ残念としかいいようがありません。メキシコ国境近くの高速道路の脇に建てられた標識に親と子供が手を繋いで渡るので注意せよとの警告があったのを今でも忘れられません。
日本にも今も昔も悪代官はいたようですが、財産を持って国外逃亡したというような話は聞いたことがありません。少なくとも他国と比べれば日本の為政者は、まだいい方ではないかと私は考えています。いずれにしても、TOPが悪いとその流れは下に行き渡って腐ってしまうというのは、組織も国家も同様のようです。
海外体験をしてみると、我々日本人には誇れることがあることに気がつきます。
それは2600年以上連綿と続く皇室と日本の歴史的伝統が一つ。二つ目には高邁な理想と思想を実践した素晴らしい人物が歴史上にいたことが挙げられます
左*上杉鷹山 右*二宮尊德の肖像画
今回はその中から二人の人物をとりあげてみます。まず江戸時代の米沢藩主の上杉鷹山です。えん和の代理店さんで米沢で活動している方がいますが、話を聞いていると時々鷹山の話がでてきて米沢の人々の誇りになっているのを感じます。 鷹山が養子として入った上杉藩はかつては全国で最も強大な100万石の藩でしたが、関ヶ原の戦いで豊臣方についため石高は半分に減らされました。 それがさらに減らされ鷹山が藩主になった時には15万石しかありませんでした。 負債は100万両にものぼり、税とその厳しい取り立てによって住民は土地を追われてどんどん減り、貧困が全領を覆っていたのでした。鷹山が世継ぎになったのはまだ17歳でした。はじめて米沢に足を踏み入れて、目の前に展開する荒れ果てた光景を見て若き藩主は深い衝撃を受けました。 しかし、それと同時に彼は膝下に置かれている火鉢の炭を一生懸命に吹いている自分の姿を見て教訓を得ました。同じ方法でこの土地と民を蘇らせることができるのではないかと希望を抱くことができたと言っているのです。 彼は改革を決意し、春日明神に誓文を捧げました。1767年8月1日のことです。 まずは自らの家計の支出を1500両から209両に切り詰め、奥向きの女中は50人から9人に減らし、自分の着物は木綿に限り、食事は一汁一菜を超えないようにしました。ありとあらゆる改革を果敢に実行し鷹山は70歳で亡くなりました。 民は富み、国中が豊かに満たされました。当時全藩あげても5両の金を工面できなかったのに、今や一声で一万両を集めるようになりました。彼が亡くなった時、民は自分の父母を失ったかのように泣いたそうです。 その上杉鷹山のことを内村鑑三の書籍を通じて知ったケネディ大統領は、自分の最も尊敬する人として上杉鷹山をあげていたこを知る人は少ないと思います。 そして二人目は、幼い時に両親を亡くし、孤児として育ち百姓の身分でありながら、失った自らの家を再建しただけでなく、小田原藩主に懇願されて600もの家や藩領の財政再建した人物が二宮金次郎です。 昔は小学校には必ずあった銅像も今はほとんど見なくなり教科書からも消えてしまったのでしょうか?彼の教えを守って成功した明治の実業家は多いのです。 彼が指導したのは大は大名から小は小作にいたるまで失敗させたものはありませんでした。彼による絶対に失敗しない方法は”積小為大”(せきしょういだい)です。 すなわち、小さな努力をコツコツと積み上げていけば、いずれは大きな収穫や発展に結びつくという教えです。
トヨタの創業者、豊田佐吉もその教えに従い自動織機に改善に改善を重ねました。 佐吉の動機は、はたおりで苦労している母親を少しでも楽にさせたいという思いやりからでした。そして、彼はその利益を元手に息子の喜一郎に自動車の研究をさせ将来の事業にせよと命じたのです。今日のトヨタの大成功の陰に二宮金次郎がいたことを知る日本人はあまりいないでしょう。
今日の世界は、グローバリズムの影響で利益最優先の考え方が一斉を風靡しています。その弊害も多く出て来て、一歩立ち止まってみようという転換点に差しかかているような気がします。 日本の代表的日本人として誇る、上杉鷹山や二宮尊徳は、産業改革の目的の中心に家臣や農民を有徳の人間に育てることに置きました。 富を得るのは、それによって礼節を知る人になるためでした。これは日本独自の思想で日本の宝だと言っても過言ではないと思います。経営学者として有名なピーター・ドラッカーも評価する日本的経営哲学といえます。今年のNHK大河ドラマの”晴天を衝け”の主人公、渋沢栄一も二宮尊徳の影響を受けていたそうです。彼の著書”論語とそろばん”はその代表作でベストセラーとなっています。
日本は76年前、アメリカの空爆を受け日本全国が焼土と化しました。そこから今日の繁栄を築くのにどれほど、われわれの父祖や先人たちの苦労があったか計り知れません、敗戦とアメリカの占領政策によって日本が古来から続いて来た歴史観を全否定されました。その後遺症は今もあちこちにでています。そして我々日本人をを苦しめ続けています。 しかし、ありがたいことに日本には綺羅星となる人材がまだまだ沢山かくされているのです。それを掘り起こし、明日に生かしてくべきではないかと私は考えています。このブログでは今後も少しづつ取り上げていきたい。 私たちの事業はまったく蟻のように小さいものです。しかし、目標を人間づくりにおき、社会のニーズに応えていくことができればそれは意味のある事業となれるのではないでしょうか?